■「酒とつまみと営業の日々」第46話〜第50話 ■

第46話 5000部なら2ヵ月で品切れ!

 さまざまなメディアでの紹介によって、『酒とつまみ』という雑誌の知名度は確実に上がっていった。これは推測になるけれど、知名度の向上というのは、メディアでの紹介のその先に、手にしてくださった読者が、知り合いに口コミで広めていくという理想的な形で進んでいったような気がしている。
 というのも、メディアで紹介された後の反響は、その時点で出ている最新号への注文として最初に現れるのだが、その後で、バックナンバーの注文も来ていたからだ。知っていただくチャンスが増えることは、バックナンバーの販売にもつながっており、これは、多くの在庫を抱えてきた編集部として、心から嬉しいことだった。
 弱小ミニコミにとって、在庫を抱えるのは苦しい。置く場所を考えるだけでも、次の号を出す意欲をそがれるほどだ。『酒とつまみ』編集部でも、そういう時期が長く続いた。
 創刊からの各号の出荷開始と品切れまでの期間を見ると、創刊号では約10ヵ月、2号では8ヵ月かかって2000部をひとまず売り切った形になる。それに勢いを得て3号を4000部刷った頃から長く在庫を抱えている。3号が品切れになるまで、1年と7ヵ月かかっている。部数を5000部とした4号以降はさらに厳しい状況になった。
 2004年1月発行の4号は、2005年秋に『タモリ倶楽部』で2度にわたって知っていただく機会を得たことで急激に在庫を減らしていたが、2006年5月時点でも品切れには至らなかった。5号、6号は、さらに在庫に余裕がある状態。『酒とつまみ』の天井は5000部なのか。ときおり、悲観的にならざるを得なかった。500部で始めたミニコミが5000部まで刷れるようになったのだから、それで十分とも思えたが、やはり、そこには残念さもあったのである。
 状況が変わったと感じられたのは、7号の5000部が、実質的には6ヵ月ほどで品切れ状態になったときだった。2006年の2月末である。
 そして編集部は、8号を8000部刷る決意をし、2006年4月13日に配本を開始したのだ。その翌月が歓喜の5月であったことは前回にも書いたが、実は6月13日までのちょうど2ヵ月の間に、5738冊を出荷していた。部数が5000部なら、すでに品切れということになる。6月上旬には、連載陣の松崎菊也さんたちのコントライブの会場で、一挙に96冊を売っている。
 ライブ会場の別室で行なわれた松崎さんたちの打ち上げに参加させてもらいながら、私はしこたま飲んだ。なにしろ、5000部ならもう品切れという信じられない事態に突入していたのだ。平静でいられるわけがない。
 そして編集部は、この頃から、初の単行本『中央線で行く東京横断ホッピーマラソン』の刊行へ向けて、本格的に動き始めるのである。

(「書評のメルマガ」2007.3.10発行 vol.303 [ 春の風情 号 ]掲載)

第47話 ホッピーマラソン部数決定!

 2006年6月。『酒とつまみ』編集部は、創刊以来初の単行本となる『中央線で行くホッピーマラソン』の追い込みにかかっていた。というのは、ウソで、編集WクンもデザインのIさんも、ただひたすら、私の原稿を待っていた。
「5月の連休で一気に書くからよ。あとはよろしく頼みますわ」
 と強気な発言をしていたのも私だ。しかもこの連休、実は2005年のゴールデンウィークのことなのであった。つまり、書くよ書くよ、初の単行本をついに出すのよと掛け声だけ盛んで、実はほとんど何も進まない月日が、丸1年に及んでいた。
 さすがに私も焦っていた。単行本用のボーナストラックである京王線バージョンの、半分に満たないところまでは、2005年の10月初めまでに書いていたのだが、食っていくための仕事に追われ、追われて疲れて深酒をし、その後、年を越えてからは8号の製作作業でもドツボにはまり、息も絶え絶えなのだった。
 しかし、もういい加減に書かないと、本は出ないなあ、というところまで追い込まれていた。私にはいつか書くという気持ちが残ったとしても、1年にわたって原稿を待ってくれている仲間の気持ちが、この機を逃しては完全に離れてしまうという危機感もあった。なんとしても書き切らなくてはいけない。
 で、集中して書いたら、ああ、書けた。2006年6月半ばには最後まで書き切り、校正紙をWクンが丹念に読んでくれ、修正箇所へのアドバイスももらった。本編の最後、作家の重松清さんが登場する箇所になると、とたんに文章のトーンが弱くなることを指摘して、「ヒヨルな」と忠告してくれた。こちらの性格を見抜いている。怖い編集者だ。
 けれど、指摘は至極もっともな話でもあったので、その修正も月末には終え、入稿は7月6日。大日本印刷のMさんが、原稿をとりに来てくれた。
 本編256ページ。カバーも帯もなし。掲載箇所の原稿確認をお願いした重松清さんからは、帯に使う推薦コメントを頂戴していたが、予算の関係で、帯をつけることができなかった。
 それでも、ようやく、入稿した。あとは最終の校了作業をして、本の完成を待つばかりである。協議の結果、定価は本体価格1400円。部数を、なんと3000部と決めた。私は、頭がクラクラした。
 原稿をMさんに渡した後、Mさんをそのままお誘いし、デザインのIさん、カメラのSさん、編集Wクン、私の5人で、「浅草橋西口やきとん」で入稿を祝った。普段はこんなに頼まないくらいのつまみを注文し、通称ボールと言われる、レモンハイボールを次々にお代わりして、私はまた、頭がクラクラした。このメンバーが集まり、Mさんが持参した束見本を手に飲んだ晩から、すでに2ヵ月が経っていた。
 どんな本になるのだろう。私にとって、ピンで書く初めての単行本が、どのような顔をしているのか。不安でもあり、楽しみでもあった。みんなに感謝したい気持ちが湧き上がって、私はボールをまた、お代わりした。酒が、止まらなかった。

(「書評のメルマガ」2007.4.7発行 vol.308 [ 書かれていないもの 号]掲載)

第48話 誰が買うのかホッピーマラソン

 本体価格1400円。初刷り3000部で、『酒とつまみ』編集部初の単行本となる『中央線で行く東京横断ホッピーマラソン』をスタートすることになった。これは私自身にとってピンで書く初の単行本。自費出版と言われりゃその通りだが、そんなこたあ気にしちゃいられない。とにもかくにも、早く出版できれば良いという気持ちだった。そういう気持ちになっている自分自身が嬉しかった。
 ただし、金のことは別である。単行本となると、いかに帯もカバーもつけないとはいえ、『酒とつまみ』本誌と同様というわけにはいかない。わずかに3000部の印刷製本代が、4月に出したばかりの『酒とつまみ』8号、8000部の印刷製本代を上回るのである。
 うわあ、さすが単行本だよなあ――。
 定価と部数を決めた当初は、『酒とつまみ』編集部はいつものように、だいぶノー天気だった。が、少し時間が経ってくると、私の胸には、不安が膨らみ始めた。取次店さんは一体何冊流通してくれるのか。直取引の書店さんとの取引は全体の4割に及ぶとはいえ、書店さんは大袈裟に言えば全国各地に点在しているのであり、『中央線で行く』などと地域限定した企画の書籍を、一体全体、どれだけ取り扱ってくれるのか。そして個人読者の方々。『酒とつまみ』本誌を応援してくださるとはいえ、『ホッピー云々』は文字通りの酔狂、1400円とは片腹痛いと言われたって、それはそれで、仕方のないことなんだよなあ、などと、考え始めたのである。
 しかし、どうしたって夢も見てしまう。
 税抜きの本体価格が1400円ということは、7掛けで書店さんに委託した場合、それが売れれば、編集部としては1冊980円の売上になる。1000冊で、えーっと、おお、98万か! 98万なら、ひとまず印刷製本その他必要経費でトントンだなあ……。
 1000冊で云々と考えるあたりが、そもそもダメなのかもしれない。2000冊なら、経費と関係スタッフへのギャラが出て、3000冊完売なら利益が出る。そう考えてこそ、商売なのだろう。しかし、なんとか売れてくれればと考えたのは、このとき、1000冊だった。
 というのも、1000人もの人が、1400円の『ホッピーマラソン』を買うということが、どうにもうまく、想像できなかったのだ。『酒とつまみ』初の単行本としては、創刊号の中島らもさんに始まる『酔客万来インタビュー』の再録本がふさわしいのではないかと、実は、この期に及んで私は、そう感じていたのである。

(「書評のメルマガ」2007.5.13発行 vol.312 [ 逃げ去るつばめ 号]掲載)

第49話 ホッピーマラソン納品の日

 2006年7月6日に印刷所への入稿をすませた『中央線で行く東京横断ホッピーマラソン』は、無事、校了した。かくなる上は、取次店を経由して注文書を配布するだけでなく、直接取引で『酒とつまみ』を盛り上げてくださってきた書店さんにも、ファックスや電話で、発行のご案内をしなくてはならない。
 今回は、記念すべき編集部初の単行本であり、私自身にとっても初のピンで書く単行本である。書店さんへの案内に加えて、できることなら、知り合いの編集者や、これをおもしろがってくれそうな新聞社、出版社に対しても、事前に案内書を送るなどして、本の紹介を促進したいとも考えていた。しかし、それらの作業のすべてに、私は手をつけることができなかった。
 6月、92歳になる実家の祖母が病に倒れていた。いったんは入院をさせたが、完治には手術が必要だということで、私たち家族は悩み、結局病院で死なせてしまうことになることへの恐れから、自宅で看取る決心をした。
 母と、その日から実家に泊り込むことになった私とで、看病をする日々が始まった。7月の末は大竹編集企画事務所の決算報告書の提出期限でもあり、例年、たいへんな思いをしているのだが、このときはそこに、夜中にも病人の様子を見るという作業が加わり、通常の仕事もままならない。フリーライターという稼業には、少し仕事を休めば翌月にはあっさりと干上がってしまうようなあぶなっかしいところがある(私だけのことか?)。仕事で不義理をすること、それに起因して金欠になること、決算の事務作業、そして病人の看護、それらにただただ追われるだけで、とてもではないが、書店さん、新聞社・出版社などへのご案内に手が回らなかった
 そして、決算書類の作成にも目処がついた7月の下旬、祖母は逝った。静かで、平和な最期だった。
 ごく近い身内に限った通夜を行い、翌日には、告別式が営まれた。少人数の葬儀には広すぎる座敷で、親族は明るく祖母の思い出を語り、運転のある者以外はみな、気持ちよくビールを飲んだ。火葬場で骨を拾い、初七日の法要まで済ませてから、私はふと時計を見た。午後1時をすでに過ぎている。編集部では、この日の午後に印刷所から納品される『中央線で行く東京横断ホッピーマラソン』の束を、カメラのSさんと編集Wクンのふたりが、ダラダラ汗を流しながら運び上げているはずだった。
「ばあちゃん、1冊、本が出ましたよ。ちょっとトボケタ本だけどね。長い間、いろいろ、ありがとう」
 喪服の上着を脱いで空を見上げながら、私はそんなことを思っていたようだ。

(「書評のメルマガ」2007.6.11発行 vol.316 [出会い系図書館 号]掲載)

第50話 バーになぜこんな本が?

 週があけて決算書類への捺印もすませた私が『酒とつまみ』編集部へと足を運ぶと、そこで待っていたのは、納品されたばかりの『中央線で行く東京横断ホッピーマラソン』の山だった。
 『酒とつまみ』本誌と異なり、取次店への最初の納品部数もわずかであったし、直接取引の書店さんへの事前の告知もほとんどしていなかった。さらには、『中央線で行く……』と銘打った本を違う沿線や地方の書店さんに積極的に売り込むことに、少しばかり気後れしていたりもしたので、納品直後の出荷数はわずかなものだったのである。しかもぺらぺらな本誌に比べれば厚さもあって、狭い仕事場で、なんというか、非常に嵩張っているのだった。
 あ〜あ。これ、どうすんだろうなあ!
 私は『酒とつまみ』創刊号500冊を目の前にしたときと同じ気分を味わっていた。しかしながら、とにもかくにも営業開始である。私はまず、本誌で『バーテンダー酒を語る』というエッセイを連載してくださっている佐藤謙一さんの店に、できたばかりの『ホッピーマラソン』を持ち込んだ。
 ここは銀座6丁目にある、高級と言われるバーである。私なんぞが気安く顔を出せる店ではないのだが、創刊前から執筆を快諾してくださった上、『酒とつまみ』をお店で積極的に販売していただくなど、実にお世話になっているお店であり、マスターなのだ。
「おお、できましたね。おめでとう」
 マスターはそう言うなり、梱包を破って1冊を抜き出し、カウンターの中央に面陳(表紙を前面に向けて陳列すること)したのだった。冗談かと思ったが、そうではない。
「ここに置いて、売らせてもらいますよ」
 ちょっとヘンなことになった。銀座のバーのカウンターに、いかにも場違いな私の単行本が陳列されている。
 気になって気になって、実はその後、頻々と通うことになったのだが、カウンターの端で見ていると、本を見つけたお客さんが、「これ、なに?」などと聞いている。すると、この店のチーフバーテンダーがなんと言ったか。
「当店のオフィシャル・ブックでございます。販売をしておりますので1冊いかがでしょうか」
 おいおい。オフィシャル・ブックって何のことよ? ちょっと待ってくれよ。などと焦る間もなく、
「著者の方があちらにお見えですから、せっかくですからサインもいかがでしょうか」
 よしてくれー!
 冗談みたいな話だが、冗談じゃない。私はこの夏、バーで自著にサインをするという、なんとも気恥ずかしい経験を、たびたびすることになったのだ。

(「書評のメルマガ」2007.7.13発行 vol.320 [澁澤と堀内 号]掲載)



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